FC2ブログ
        

心の中の平和のとりで?

2018/ 04/ 13
                 
ユネスコ憲章の前文に「戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」という文言があります。(英文は“”That since wars begin in the minds of men, it is in the minds of men that the defences of peace must be constructed.”)


以前からこの文言について、ずっともやもやしています。戦争を起こさないために“とりで”を築くのって、同じ土俵の話じゃないのだろうか?“とりで”の内と外を分ける排除の話ではないのだろうか?価値判断の話ではないのだろうか?


“とりで”って外敵を防ぐためのもの。つまり“とりで”の外は敵、内は味方という価値判断が存在する。では“とりで”の中に入ってほしくない外敵とは?たぶん言いたいことは「差別をする心」とか「人を蹴落としてでも自分が得をしたいと思う心」を“とりで”の外に置きましょうということなんでしょう。


でも座禅瞑想を続けて、ちょっとずつ見えてきたのは、自分がそう思いたいと思ってないのに勝手に心の中に出てくる思いを「ダメダメ、こんなこと考えちゃダメ」と排除しようとすると、それが消えないどころか、かえってずっとそのことについて考えてしまう。もとの思いプラス罪悪感という二重の苦しみになる。


私の座禅や瞑想の師が教えてくれたのは、排除せずに「ただ気づく」こと。「あ、私いま、この点ではあの人より優れてると思った」「あんな人たち、いなくなればいいと思った」そういう思いを排除しようとせず、ただ“ある”と気づくこと。それをずっと繰り返していくうちに、そういう思いが現れる頻度がだんだん減っていきます。(これは、実践していて本当にそうだと思います)


ここまでが心の中の話。では心の外では?先日ある方と話していて、その方から「洗練性」という言葉を聞きました。今の社会が洗練性に磨きをかける方向に向かっているのを危惧されていました。「洗練性」とは、その方の話によると社会から見たくないものを排除し、洗練された(ように見える)世の中にすること。人にやさしい社会などと言葉ではうたうけど、公園のベンチは横になって眠れないように間に仕切りを置いたり、土手からホームレスを追い出したりする。


これがなんとなく“とりで”という考え方とだぶって思えました。“平和のとりで”の外に置くものと中に置くものって、どう決めるんだろう、「私の心の平和のとりでの内を守るため、ホームレスは視野に入ってほしくない」これは正しいの?正しくないの?


2001年の付属池田小事件の後から小学校のセキュリティが厳しくなったと聞きます。全国の学校がそうなる中で、沖縄のどこかの小学校だけが、逆に誰でも出入り自由にし色んな人が入ってきて色んな目があることで、かえって安全になったと聞きます。


私の好きな作家の坂口恭平さんは以前「熊本をマッサージ天国にする」と言っていました。最初は、なんだそれは?と思いましたが、どうやら誰もが熊本に行くと、ゆるゆるっとゆるんでしまう街にしたい、ということを言いたかったらしい。認知症のお年寄りが車道を徘徊していたら、カルガモが通り過ぎるのを待つように、お年寄りが行き過ぎるまで車が待ってるような街にしたいと。


私の考える平和ってそっちのほうかな、少し混沌としていて懐が広い、だから洗練されてない。今よく言われる意味での安心安全とは言えないけど、自分がたとえばホームレスや認知症になった時も排除されない安心感がある、“とりで”で線引きしないところ。こんなこと言いながら、自分の心の中をのぞきこむと、やっぱり嫌なものを排除したい、苦手な人に自分のとりでの中へ侵入されたくない気持ちがある。だから今日も座って、そういう気持ちがあることに気づいていく。


なんだかまとまったかまとまらなかったか、分からない文章ですね。今日も読んで下さって、ありがとうございます☆
スポンサーサイト
                 

コメント